四土の会 (瀬崎)
2015年 03月 02日
あらかじめ秋山氏からは四土の会のメンバーに注文が付いていて、1.フェミニズムの問題 2.長編詩は可能か、どんな工夫が必要か 3.引用の問題 (1).読者-作品-作者の三者の関係 (2).本文と引用作品との関係 4.古典をどうするべきか など、についての意見を聞かせて欲しいとのこと。
なんという注文だ。
秋山氏としては、出版祝賀だからといって、単に、圧倒されましただの、読み甲斐がありましただのといった紋切り型のことを言われても困る、ということだったそうだ。
で、私はこの詩集の特徴的な4つの点から入った。
一つ目は、詩集の表紙も背表紙も黄色なら、中の頁もすべて黄色の用紙であること。
この黄色と黒の目立つ配色は注意喚起、危険通知などに使われるもので、作者はこの詩集が危険なものだと知らせていたのだろう。
二つ目は、198頁に長編詩「ひな」ただ1篇を収めていること。
なぜ、作者は長編詩を必要としたのか、また、長編詩によって何をあらわしたかったのか。
三つ目は、制作期間が長いこと。
「ひな」の初稿は1987年の春ごろで、その年の間に7稿までが書かれ、その後、10年の放置期間の後に8稿が書かれている。さらに10年余りが経って今回の9稿の形になっている。ということは、25年以上にわたって書き継がれた作品ということになる。
四つ目は、作品のあちらこちらに話者以外の書き手が存在すること。
「「ひな」のためのノート」という註だけではなく、作品自体にもゴシック体の註のような部分がいたるところに挟み込まれている。それは詩行そのものの自注であったり、詩行が書かれた背景であったり、歴史的な考察であったりする。
これらについての私見を述べた。
この詩集はあちらこちらで枝道が分かれた迷路のような姿となっている。枝道を進んで妙なところにワープしたり、あるときは枝道が袋小路となっていたりもするのだ。
この詩集で秋山基夫氏は、書くという行為、書いている時間そのものを、書きたかったのではないか、と思っている。
by akirin2274 | 2015-03-02 20:19